「豪淳(ごうじゅん)の碑」(上揚区)が甲佐町指定文化財に指定されました
「豪淳(ごうじゅん)の碑」(上揚区)が甲佐町指定文化財に指定されました
令和元年11月1日に上揚区の墓地内に所在する「豪淳の碑」が甲佐町指定文化財に指定されました。 町指定文化財への指定は平成22年1月1日に指定された「緑川上流通漕碑(みどりかわじょうりゅうつうそうひ)(上揚区)」「下豊内の逆修碑(ぎゃくしゅうひ)(下豊内区)」「薬王寺の宝篋印塔(ほうきょういんとう)(早川区)」「津志田の逆修碑(津志田区)」以来、9年ぶりになります。 今回の指定で甲佐町の指定文化財は全部で16件になりました(表1)。No | 名称 | 指定年月日 | 所在地 |
1 | 陣ノ内館跡 | 昭和55年2月23日 | 甲佐町下豊内1926番地 他 |
2 | 船津東前横穴群 | 昭和55年2月23日 | 甲佐町船津下河原1054番地 |
3 | 早川城跡 | 昭和55年2月23日 | 甲佐町早川下小塚474番地 |
4 | 早川六地蔵 | 昭和55年2月23日 | 甲佐町早川803番地 |
5 | 鵜ノ瀬堰 | 昭和56年3月22日 | 甲佐町上豊内 |
6 | 円福寺跡阿弥陀如来座像 | 昭和56年3月22日 | 甲佐町早川803番地 |
7 | 目野薬師如来及び十二神将像 | 昭和56年3月22日 | 甲佐町中横田目野1442番地 |
8 | 甲佐(松尾・豊内)城跡 | 昭和58年3月10日 | 甲佐町上豊内南谷川2129番地 |
9 | 木造如来形座像(薬師如来) | 昭和58年3月10日 | 甲佐町上揚345番地 |
10 | 緒方家文書 | 平成14年4月25日 | 甲佐町糸田1461番地 |
11 | 簗の樋門 | 平成14年4月25日 | 甲佐町豊内1番地 |
12 | 緑川上流通漕碑 | 平成22年1月1日 | 甲佐町上揚876番地 |
13 | 下豊内の逆修碑 | 平成22年1月1日 | 甲佐町豊内1089番地 |
14 | 薬王寺の宝筺印塔 | 平成22年1月1日 | 甲佐町早川745-2番地 |
15 | 津志田の逆修碑 | 平成22年1月1日 | 甲佐町津志田3042-1番地 |
16 | 豪淳の碑 | 令和元年11月1日 | 甲佐町上揚231-3番地 |
豪淳の碑の指定に際しては前川清一先生(熊本県文化財保護審議会委員)にその価値について調査いただきました。その結果、下記のようなことが明らかになっています。
豪淳の碑は凝灰岩で作られた直方体の石碑で、その大きさは幅約70cm、厚さ40cm、その高さは220cmを超えます。表面上部には月輪(がつりん)を線刻し、中には大日如来を表す梵字「ア」が薬研彫(やげんぼり)されています。その下には銘文が刻まれています。銘文からは、豪淳自ら、永禄十一年(1568)に法華経一千部を漸読(ぜんどく)して、造塔作善(ぞうとうさぜん)を行ったことが分かります。
『肥後国誌』によると、豪淳は甲佐宮境内にあった神宮寺を永禄元年(1558)に再興したお坊さんとして紹介されています。また、阿蘇大宮司の家臣であった甲斐宗運と親交があったとも言われています。さらに、加藤清正が茶臼山に新城を築城する折に地鎮を執り行うよう依頼されたが、豪淳は年老いていたので、弟子の合志郡彌護山無動寺(現大津町)の悟智法印に依頼されるように伝えたが、地鎮の際には豪淳も共に執行したと記されています。
実際には、清正の築城が始まる天正十九年(1591)年には豪淳は没していたことが大津町にある石造物からわかっていますが、豪淳の名僧ぶりが当時肥後国内に広く知れ渡っており、江戸中期までには『肥後国誌』に記されたような伝説が形成されたものと考えられています。
豪淳の碑は、神宮寺跡に近い場所に存在していて、伝説化した豪淳が実際に存在したことを証明できる石造物であり、郷土の歴史を知る上で欠かすことのできない貴重なものです。なにより、実際に見学いただくとその碑の大きさに圧倒され、機械も何もなかった時代にこれほどの石で石碑を造ることができた豪淳の偉大さを実感できると思います。
現場は墓地内になりますので、見学には節度あるマナーをもってお願いします。
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