甲佐町の文化財探訪「関根江左(せきねこうざ)先生之墓」〜令和3年4月号
更新日:2021年4月1日
「関根江左(せきねこうざ)先生之墓」
本町は、文教の地と呼ばれてきました。
有安の正法寺(しょうほうじ)の床の間には南画(なんが)が掛けてあります。そこには江左の名があります。関根江左の南画です。糸田の四堂崎には「関根江左先生之墓」があります。この墓は、数多くの門人による顕彰碑(けんしょうひ)でもあります。このように多くの門弟が南画を嗜(たしな)んでいたことに驚きます。
関根江左は、早川の養寿院に生れ、幼名を井芹重平といいます。幼くして、梶山九江(きゅうこう)の門弟になり、墨絵南宗画(すみえなんそうが)の本道を学びました。江左は、中央に絵を出すためには、姓名を改めた方がよいと考え、横野の関根氏に養子の形をとり、名を関根江左と改めました。
江左は南画を徹底的に学ぼうと志をたて上京しました。日本各地にある名画を模写し、南宗画の確定した紛本(下書き)を書きあげる目的でした。東洋の名画をほとんど模写されています。
今、その所蔵されている莫大な資料にもその努力がうかがわれます。京都では富岡鉄斎(とみおかてっさい)先生に認められ、先生の代筆者になり、大正十二年までの六年間その研究指導に当られました。江左の作品は皇室にも献上されています。又、熊本市で墨友会をつくり、師範格で南宗画の指導に精魂を傾けられました。
江左の門弟として甲佐町では、上早川の本田景風氏、西寒野の水足安友氏、糸田の奥景山氏がおられます。関根江左の画は日本各地にあると言われていますが、甲佐町にもその作品が残っております。
文教の地と呼ばれる礎を作られた一人といっていいでしょう。
文責・甲佐町文化財保護委員 赤星 眞照 (有安区)
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