甲佐町の文化財探訪「甲佐町の養蚕(ようさん)について1」〜令和4年1月号
「甲佐町の養蚕(ようさん)について1」
宮内地区社会教育センター(旧宮内小学校)には「甲佐町民俗資料館」があります。そこには、これまで農業で使われていた古い道具や、家庭で少し前まで使われていて現在では見ることのなくなった生活の道具などが数多く保存・展示されています。その中には、養蚕に関するものも数多く展示されています。
そこで、今回は甲佐町にどのような経緯で養蚕が普及していったのか、少し調べてみることにしました。
江戸時代の中ごろに八丁村の庄屋であった小山田家が所有していた古文書『寶暦(ほうれき)四年(1754)・當用日記 戌閏二月朔日(ついたち)・八丁村庄屋 兵吉』には、「蚕ヲ養う様二と被仰付事(仰せ付けらる事)」や「寶暦五年(1755)亥年より御国中(肥後国)蚕を仕立仰様にと上みより仰付けられ・・・」等と書かれており、役人によって桑の実二十粒完(ずつ)が村に配られ、桑の苗を作ることから養蚕が始まったと思われます。
細川藩が養蚕を奨励した背景には、その前後大雨による洪水で稲の不作、または日照りによる旱魃(かんばつ)で、人々の疲弊や生活苦などもあって年貢にも影響していたのでしょう。こういうことを踏まえて、この甲佐の地でも養蚕が奨励され、後の一大産業の礎(いしずえ)がこの時代に築かれたと思われます。
振り返ってみますと、養蚕の歴史は意外と古く、中国の殷墟(いんきょ※1)から発掘された甲骨文字の中に「桑・蚕・糸・帛(きぬ)」の四文字がみられるそうです。
日本には、約一世紀頃に中国からの帰化人(きかじん)によって伝えられていたらしく、古くから養蚕が行われていたようですが、九州には二世紀頃までに入ってきたといいます。奈良時代には、税を織物で納める旨の達しもあった程です。
時代が下るにつれ、当時の社会に左右された産業も珍しいのではないかとさえ感じます。現在では養蚕農家の数も激減してしまっています。
※1中国の河南省安陽市小屯(かなんしょう あんようし しょうとん)付近にある中国最古といわれる王朝、殷(いん)の遺跡。殷は紀元前17世紀末頃から紀元前11世紀後半にわたって華北地方を治めた。
文責・甲佐町文化財保護委員 石坂 妙(吉田区)
カテゴリ内 他の記事
- 2025年4月28日 甲佐町起業等応援施設が5/1(木)からオープンします!
- 2025年4月28日 甲佐町「やな場」について
- 2025年4月24日 くまもと出会いサポートセンター 『Kumarry(クマリー)』 オープ...
- 2025年4月24日 『広報こうさ』2025年4月号
- 2025年4月21日 「陣ノ内城跡(じんのうちじょうあと)」国史跡指定が正式決定